徳川ゆかりの地巡り

徳川ゆかりの地巡り





関連する武将名

徳川家康~徳川家茂

徳川家康をはじめ、徳川家が豊川稲荷への信仰が大変強かった為、かなりの寄付があったのではないかと言われている。その為、豊川稲荷では毎朝のお勤め時に徳川家康~徳川家茂までのご戒名を読み上げておられます。

昔から続けておられるご祈祷であり今も欠かさず行われている。

関連する武将名

徳川幕府

徳川幕府より本宮山20石と里宮100石の朱印状をいただいており、土地が保証された。将軍が変わるたびに更新されている。

関連する武将名

牧野氏、松平広忠

牧野氏の菩提寺。県指定の山門は戸田采女正に嫁いだ成定の曾孫が寄進したもの。

室町時代に現在の御津山に移転したのち、徳川家康の父である松平広忠によって建物の修復が行われました。松平家に大恩があるということから、寺名を大運寺から大恩寺に改めたといわれています。 清康(祖父)、弘忠(父)、亀姫(娘)の墓があります。

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牧野氏

のちに徳川家臣となる牧野一族が最初に築いたとされる城。

現在、豊川市指定史跡として南東の土塁の一部が残っています。

関連する武将名

牧野成定、今川氏、徳川家康

牧野成定は、弘治2年(1556)年に牧野家の家督を継ぐことを今川氏より認められた。しかし、その地位が相当に不安定であったようで、その後の永禄9(1566)年に今川を離れ、家康に臣従した。廟の墓碑は戸田采女正に嫁いだ成定の曾孫が建てたもの。

徳川家康が吉田城を攻めた際、牧野成定は今川方を説得し、無血開城させるという武功をたてました。

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長沢松平氏

岩略寺城は、標高174mの御城山山頂に築かれ、北東に東海道を見下ろす位置にあります。築城年代などはっきりとしたことは分かりませんが、東西三河の境目の城として重要な位置を占める山城です。

豊川市指定史跡の岩略寺城跡は、大小の曲輪や堀、土塁、井戸など戦国時代の山城が良好な状態で保存されています。

関連する武将名

伊奈本多氏、松平清康

徳川家家臣である伊奈本多氏の居城。そのすぐ東にある花ヶ池は、三つ葉葵の紋発祥ゆかりの地といわれている。

本多正忠が徳川家康の祖父である松平清康を伊奈城に迎えた際に、水葵に肴を盛って出しました。これが徳川・三葉葵の家紋の由来とする説もあります。

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伊奈本多氏

伊奈本多氏の菩提寺。

境内には伊奈本多家初代から五代までの墓碑がまつられており、伊奈本多家を偲ぶことができます。

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松平元康(徳川家康)

永禄5年(1562)、今川氏真が駿河から牛久保に着陣し、松平勢の守る一宮砦を大軍で包囲した際、元康が小勢で攻囲を突破し、孤立していた一宮砦を赴援した。これを家康の武勇談の一つとして、「一宮の後詰(ごづめ)」と呼ばれる。

現在も主郭の枡形虎口(出入口)が良好な状態で残っています。

関連する武将名

松平元康(徳川家康)

一宮砦を赴援後、帰りに今川勢に追撃されることを恐れたため街道を避け、千両村から財賀村、萩村を通り、長沢へ抜けて岡崎へ戻った。これを「一宮の退口(のきぐち)」といい、その際、財賀寺の僧が祈念と道案内をしたとされる。

財賀寺の仁王門と本堂内厨子は国指定重要文化財で、仁王門がいつでも見ることができます。

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徳川家康、酒井忠次

永禄7年(1564)、今川氏真軍の先鋒と酒井忠次が御油で戦い、忠次が敗れて、危ないところに御油の味方が加勢し、さらに家康が佐脇の今川軍を攻めたことで戦に勝利した。この戦の際に、西明寺が忠次軍へお粥を出したと聞いた家康が、西明寺に対し寺領二十石を安堵した。

西明寺の庭園は、昭和期に造られた新しいものであるが、山水木石の配置が良く、裏山の大宝山に連なる借景が見どころ。

関連する武将名

徳川家康

慶長9年(1604)に江戸幕府によって東海道は整備されたとされる。御油のマツ並木もその頃に植えられたと考えられる。江戸時代を通して管理されてきた。

御油のマツ並木は国指定天然記念物で、東海道中もっとも宿場間の距離が短い御油・赤坂宿を結び、当時の雰囲気を味わうことができます。

関連する武将名

徳川家康

徳川家康が東三河地方進出(牛久保攻め)のために築いたといわれる。

現在、糟塚砦跡には龍徳院が建てられています。また、近くの菟足神社には、家康が使用したと宮司川出家に伝えられてきた碁盤が残されています。

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徳川家康、織田信長

甲州征伐後、織田信長が安土城に帰還途中に、家康が音羽川に橋を架けて付近に風呂を作り、信長をもてなしたといわれる。

音羽川の景観が楽しめます。
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