徳川ゆかりの地巡り


豊川稲荷
関連する武将名
徳川家康~徳川家茂
徳川家康をはじめ、徳川家が豊川稲荷への信仰が大変強かった為、かなりの寄付があったのではないかと言われている。その為、豊川稲荷では毎朝のお勤め時に徳川家康~徳川家茂までのご戒名を読み上げておられます。


大恩寺
関連する武将名
牧野氏、松平広忠
牧野氏の菩提寺。県指定の山門は戸田采女正に嫁いだ成定の曾孫が寄進したもの。


牧野成定公廟
関連する武将名
牧野成定、今川氏、徳川家康
牧野成定は、弘治2年(1556)年に牧野家の家督を継ぐことを今川氏より認められた。しかし、その地位が相当に不安定であったようで、その後の永禄9(1566)年に今川を離れ、家康に臣従した。廟の墓碑は戸田采女正に嫁いだ成定の曾孫が建てたもの。

岩略寺城跡
関連する武将名
長沢松平氏
岩略寺城は、標高174mの御城山山頂に築かれ、北東に東海道を見下ろす位置にあります。築城年代などはっきりとしたことは分かりませんが、東西三河の境目の城として重要な位置を占める山城です。


一宮砦跡
関連する武将名
松平元康(徳川家康)
永禄5年(1562)、今川氏真が駿河から牛久保に着陣し、松平勢の守る一宮砦を大軍で包囲した際、元康が小勢で攻囲を突破し、孤立していた一宮砦を赴援した。これを家康の武勇談の一つとして、「一宮の後詰(ごづめ)」と呼ばれる。

財賀寺
関連する武将名
松平元康(徳川家康)
一宮砦を赴援後、帰りに今川勢に追撃されることを恐れたため街道を避け、千両村から財賀村、萩村を通り、長沢へ抜けて岡崎へ戻った。これを「一宮の退口(のきぐち)」といい、その際、財賀寺の僧が祈念と道案内をしたとされる。

西明寺
関連する武将名
徳川家康、酒井忠次
永禄7年(1564)、今川氏真軍の先鋒と酒井忠次が御油で戦い、忠次が敗れて、危ないところに御油の味方が加勢し、さらに家康が佐脇の今川軍を攻めたことで戦に勝利した。この戦の際に、西明寺が忠次軍へお粥を出したと聞いた家康が、西明寺に対し寺領二十石を安堵した。

御油マツ並木
関連する武将名
徳川家康
慶長9年(1604)に江戸幕府によって東海道は整備されたとされる。御油のマツ並木もその頃に植えられたと考えられる。江戸時代を通して管理されてきた。

糟塚砦跡
関連する武将名
徳川家康
徳川家康が東三河地方進出(牛久保攻め)のために築いたといわれる。

御油橋
関連する武将名
徳川家康、織田信長
甲州征伐後、織田信長が安土城に帰還途中に、家康が音羽川に橋を架けて付近に風呂を作り、信長をもてなしたといわれる。