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山本勘助の墓(長谷寺)やまもとかんすけのはか(ちょうこくじ)

JR牛久保駅エリア / 文化・歴史・ミュージアム
山本勘助の墓(長谷寺)
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牛久保町寺町は、その名からうかがえるように多くの寺が建てられている所です。その中の一つ、長谷寺(ちょうこくじ)には、風林火山で知られる山本勘助の墓があります。

山本勘助の墓

牛久保町寺町は、その名からうかがえるように多くの寺が建てられている所です。その中の一つ、長谷寺(ちょうこくじ)には、風林火山で知られる山本勘助の墓があります。

武田信玄の軍師として知られる山本勘助は、この寺の念宗和尚と親交があり、信玄に召し抱えられたとき遺髪を和尚に託しました。永禄4年(1561)、勘助が川中島の合戦で戦死した後、その死を悼み遺髪を埋めて建立したのが、五輪の墓です。また、長谷寺には、勘助の守護神であったとされる木造摩利支天尊像も安置されています。

 山本勘助は、明応91500)年815日八名郡賀茂村(現豊橋市賀茂町)に山本藤七郎の三男として生まれ、幼名は源助と名乗っていました。

勘助は15 才で牛窪(現豊川市牛久保町)の牧野家家臣大林勘左衛門貞次の養子となり、名を大林勘助貞幸と改め、26才で武者修行のために諸国(近畿、山陰、山陽、四 国、九州)へ出立するまでの若く多感な時期を、この牛久保の地で過しました。

勘助が諸国を歴遊し武名を高め、35才の冬に大林家に帰還したところ、勘左衛 門に実子が生まれていたため、養子縁組を解き、再び山本性に戻りました。

その後、関東の地を歴遊し、45才で甲斐の国(現山梨県)の武田信玄に仕え、幾多 の戦いで名軍師と謳われましたが、永禄4(1561)910日、川中島の合戦で討死しました。

勘助の容貌は目と足が不自由で、指も満足になく色黒で大変な醜男といわれている。

詳細データ

名称 山本勘助の墓(長谷寺) (やまもとかんすけのはか(ちょうこくじ))
所在地 愛知県豊川市牛久保町八幡口97
電話番号 0533-85-3224
交通アクセス JR飯田線「牛久保駅」下車 徒歩約10分
東名高速「豊川IC」から車で約15分
問い合わせ先 長谷寺  0533-85-3224
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